佐伯建設 100年の歴史 ~発展の時代~
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- 株式会社佐伯建設の誕生
- 昭和34年の春、「川崎常務さん、長い間仕えてくれた親父さん(佐伯與之吉)も昨年亡くなったことだし、九州支店はあんたに全て任せている。このへんで、あんたも独り立ちしてはどないでしょうか」佐伯建設工業の佐伯豊社長から強い奨めがあった。
二十三銀行、大分紡績の建設などで大分と縁が出来て以来、川崎喜一は佐伯組、佐伯建設工業の中心人物として、亡き佐伯與之吉を助けてきた。当時大阪本社は大阪湾の浚渫や埋立などの土木工事にも力を入れ始め、海外にまで手を伸ばしていた。土木は大阪、建築は大分と色合いがはっきりと分かれてきたのだ。大分は九州支店として川崎喜一常務が全責任を負うようになっていた。戦後の一時期、大分支店の建築営業だけで大阪の本社経営をまかなったこともあった。本社としても川崎喜一の永年の功に報いるという佐伯豊社長の奨めである。
日本経済は急速に復興の緒につき、高度成長への足がかりを見せ「岩戸景気」と言われたころである。64歳になった川崎喜一は再三固辞したが、天の時、地の利の好転である。もう若くもない。ついに独立を決断した。こうして九州支店が独立して「株式会社佐伯建設」が誕生したのは昭和34年4月1日だった。社名に「佐伯」の名を残したのは喜一の律儀さである。本社に対する義理を重んじる彼の誠実な人柄が忍ばれる。
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1959年
昭和三十四年「株式会社佐伯建設」設立
初代社長 川崎喜一就任(佐伯建設工業九州支店の営業を受け継ぎ分離独立)
〔本社(大分)、小倉支店、熊本出張所、宮崎出張所〕
資本金 30,000,000円 -
東京事務所新設
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■大分銀行健康保険組合別府保養所あけぼの荘新築工事
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1961年
昭和三十六年福岡出張所新設
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1962年
昭和三十七年 -
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1963年
昭和三十八年増資(資本金 60,000,000円) 大阪事務所、高松事務所、小豆島出張所新設 -
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- 異色の工事 別府近鉄ロープウェイ
- 分社独立後まもない佐伯建設が、昭和36年から昭和38年にかけて手がけた異色の工事に別府近鉄ロープウェイの新設がある。
登り口の高原駅舎と山頂駅舎とを繋ぐ鉄塔基礎工事では、勾配が35度という山の傾斜面での鉄塔建てや海抜1300mもある山頂での資材運搬には冬場の悪い気象条件も重なって、危険性が伴った。佐伯建設の持つ技術の総力をあげ、事故らしい事故も出さずに立派にやり遂げ、技術の佐伯の名をあげた。
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1964年
昭和三十九年小倉支店を北九州支店に改称、福岡出張所、宮崎出張所を事務所に昇格 -
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1965年
昭和四十年昭和40年 増資(資本金 100,000,000円)
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- 昭和40年には大分県内トップに
- 創業者である川崎喜一社長のもと、専務取締役川崎力太(後の2代目社長)、取締役川崎安太(後の3代目社長、現会長)ら、独立後の佐伯建設は強力な布陣が敷かれた。昭和40年には建築工事完工高で県内業者の中においてトップとなり、13億9千万円を計上した。その後、変動為替相場制への移行、2度に渡る石油ショックと景気低迷が続いた「不確実性の時代」においても堅調に成長し、13年後の昭和53年には県内100億円企業の仲間入りを果たし、昭和56年には142億円にまで売上高を伸ばしたことからも、会社の飛躍がうかがえる。
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1966年
昭和四十一年■大分トヨタ本社社屋新築工事
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1967年
昭和四十二年
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1968年
昭和四十三年大阪事務所を支店に昇格、熊本事務所を支店に昇格し南九州支店と改称
増資(資本金 125,000,000円)
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1969年
昭和四十四年安田火災の損害保険の代理店、不動産管理会社として、関連会社 川崎商事株式会社(現大分ライフコミュニティー株式会社)を設立 -
南九州支店社屋新築
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1970年
昭和四十五年増資(資本金 150,000,000円) -
■九州松下大分事業部建設工事
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1971年
昭和四十六年川崎喜一、会長に就任
二代目社長に川崎力太が就任 -
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- まだ珍しい基礎補強法であったアースオーガー工法を採用した本社ビルが完成。
施工段階では見学会を開催し多くの関係者に見ていただいた。 - 「歩みは遅くとも、一歩でも半歩でも前進して後進しない。しかし極端な派手な前進はしない。いわゆる安定成長を経営哲学とし、あくまで会長が築き上げた誠実、親切、丁寧の心を受け継いでいきたい」
昭和46年7月、2代目社長を継いだ川崎力太は就任の弁をこう語った。大分市の中島西3丁目に佐伯建設の本社ビルが完成したときである。非能率だった旧社屋から僅か3日間で移転。近隣に配慮し、当時まだ珍しい基礎補強法であったアースオーガー工法を採用したSRC造8階建。延床面積4000平方メートルの堂々とした新社屋となった。
ゆっくりと湾曲して流れる住吉川のほとりに立つ本社ビルは、外観が地味なグレーのタイル張り。質素、簡潔でスッキリしている。無駄な装飾は一切ないが、各階とも機能的で、働きやすいオフィスという雰囲気、いかにも佐伯建設の社風を象徴している。約40年経った今日でも、その端正さは失われず、社員、関係者に愛される本社ビルである。
- まだ珍しい基礎補強法であったアースオーガー工法を採用した本社ビルが完成。
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1972年
昭和四十七年
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1975年
昭和五十年川崎喜一会長、逝去 -
増資(資本金 200,000,000円)
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大手町ビル(北九州支店社屋)完成
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1976年
昭和五十一年福岡事務所、東京事務所を支店に昇格
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1977年
昭和五十二年 -
■大分大学一般教育棟校舎新築工事
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1978年
昭和五十三年売上高100億円を突破
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1979年
昭和五十四年株式会社佐伯住宅(現 株式会社パナホーム大分)設立 -
■臼杵市中央公民館新築主体工事
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1980年
昭和五十五年
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1981年
昭和五十六年小豆島事務所、宮崎事務所を営業所に昇格 松山営業所を新設 -
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1982年
昭和五十七年徳島営業所新設、増資(資本金 220,000,000円)
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1983年
昭和五十八年TQC推進活動開始 -
川崎力太、会長に就任 3代目社長に川崎安太が就任
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川崎力太会長 逝去
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1984年
昭和五十九年鹿児島営業所新設 -
■武漢の森古琴台大門新築工事
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- 宇佐神宮宝物館・参集殿の完成
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昭和58年、弟川崎安太に社長を譲り逝去した2代目川崎力太の社葬は盛大に営まれ、高野山本山から真言宗管長、総本山金剛峯寺座主、森寛紹大僧正も出席し弔文を読んだ。平松知事ら各界の知名士、建設関係者、大和会の人々、社員、OBたち多数が参列した。
川崎力太が生前最後の仕事として取り組み、完成を待ち望んでいた大きな仕事のひとつが宇佐神宮宝物館・参集殿である。宇佐神宮といえば、由緒正しい、全国に4万社あまりある八幡さまの総本宮。その勅使奉幣大祭の斎行にあたり記念事業として計画されたのが宝物館・参集殿だ。深遠な宇佐の歴史と文化に触れることの出来る八幡文化の殿堂が完成した。後の社寺部設立の礎となる。
その後、公共工事では、昭和61年には大分総合コミュニティーセンター・コンパルホール(大分市優良建設工事表彰)、民間工事ではアルメイダ病院研修会館、日本生命大分ビル、富士通大分情報処理システムラボラトリーなど大型工事を手がけることになる。
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1985年
昭和六十年沖縄営業所を新設、松山営業所を廃止、南九州支店を熊本支店に改称 -
■日本生命ビル新築工事
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1986年
昭和六十一年関連会社 佐伯不動産開発株式会社 設立 -
■グリーンタウン・ニュー敷戸造成工事
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■大分市コンパルホール建設工事
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1987年
昭和六十二年
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1988年
昭和六十三年■別府水道局新庁舎建設工事