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佐伯建設 100年の歴史 誠実一途

礎の時代

  • 1917年
    大正六年
    佐伯與之吉 佐伯建築事務所創設、同時に大分出張所(後の佐伯建設)を開設
  • 川崎喜一(大正八年・棟梁時代)

    川崎喜一(大正八年・棟梁時代)

    佐伯建設 創業
     辰野博士のもとで14年間、技量を磨いた佐伯與之吉は、独立に踏み切り、大阪市東区南久宝寺に「佐伯建築事務所」の看板を掲げ自立した。同時に二十三銀行の施工などで縁の深い、大分にも九州の拠点として出張所を開設した。
     同じ島大工の家で育った川崎喜一は、数え十三の時に佐伯万吉(佐伯與之吉の兄)のもとに弟子入りして以来、数々の建築現場で働き、夜間は設計、製図の勉強のため、大阪西野田職工学校に通い、当時の日本建築第一線の技術を身につけていた。
     大阪西野田職工学校卒業し、正式に佐伯建築事務所に入社した。川崎喜一と佐伯與之吉、仕事としての本格的な付き合いが始まったのである。
     この佐伯建築事務所創設、大分出張所開設をもって、佐伯建設の創業としている。
  • 1918年
    大正七年
    川崎喜一、同事務所に入社
    協力業者の集まりを「大和会」と命名
  • 1921年
    大正十年
    佐伯工務所と改称
     
  • 1922年
    大正十一年
    ■熊本市庁舎新築工事

    熊本市庁舎

  • 1924年
    大正十三年
    ■宮崎市日州銀行(現宮崎銀行)本店新築工事

    宮崎市日州銀行(現宮崎銀行)本店

  • 1925年
    大正十四年
    株式会社佐伯組と改称(資本金50万円)
     
  • 1926年
    大正十五年
    ■鹿児島市公会堂(現鹿児島市中央公民館)新築工事

    鹿児島市公会堂(現鹿児島市中央公民館)

  • 1927年
    昭和二年
    川崎喜一、大分出張所長に昇進
     
  • 1928年
    昭和三年
    ■鹿児島市第二中学校(現鹿児島県立甲南高校)新築工事

    鹿児島市第二中学校(現鹿児島県立甲南高校)

  • 1935年
    昭和十年
    ■トキハ百貨店新築工事

    トキハ百貨店

  • トキハへ鉄筋コンクリートを提案  トキハI
     昭和10年、大分市にトキハデパート設立の話が出た。設立発起人らが、設計段階になったとき、佐伯組大分出張所長の川崎喜一に相談が持ちかけられた。資金繰りの関係で、木造デパートの計画であった。
    「せっかくなら、このさい思い切って鉄筋コンクリートでおやりなさい」川崎喜一はその場で提案した。
    「なんですって?鉄筋コンクリートですか?」発起人たち一同びっくりした。
     当時、竹町にあった某デパートも木造だった。金はかかるが、防災面や将来性からいっても有利であり、技術の自信もある。川崎喜一所長の誠意と情熱を傾けての説得が何日も続いた。そして設立者たちもついに鉄筋案に同意したのである。川崎喜一の将来を読んだ提案は人々を納得させるものがあった。しかし予算の都合上、5階建の計画から4階建(一部5階建)にしたが、天井を高くして、外観上は5階建と同じにしたのである。
     川崎喜一の指揮のもと工事が始まり、順調に進んだ。周囲を高い板塀で囲んだ工事現場の中では、組まれる鉄筋が高さを増し、板塀越しに見えるようになった。それまでのほとんどの建物が木造であった時代。この珍しい鉄筋コンクリートはいかにも牢固で最新の建築技術を駆使したように大分の人々には見えたのであった。
     そして昭和11年3月、5階屋上にて竣工式が執り行われ、4月に開業を迎えた。
  • 1939年
    昭和十四年
    大分航空隊司令部新築工事
     
  • 1941年
    昭和十六年
    小倉出張所新設
     
  • 戦線の拡大~終戦
     日中戦争が始まった昭和12年から、戦線は拡大の一途をたどり、太平洋戦争に突入すると国中が軍事色一色に塗りつぶされてきた。国家総動員法の発令に伴い、民間工事よりも軍事関係の仕事が多くなってきた。川崎喜一所長も、大分航空隊司令部や佐伯航空隊、江田島海軍兵学校など数多くの工事現場を飛び回り陣頭指揮をとった。
     しかし日本の敗戦は次第に濃くなり、昭和20年7月大分市の大空襲で中島八条の事務所など丸焼けになった。
     そして終戦を迎える。
激動の時代